佐藤 憲一
(京都大学助手)
1.はじめに
学会報告では、同性愛行為を処罰する州法を合憲と判示したアメリカ連邦最高裁判決Bowers v. Hardwick(1)を中心に、Lochner時代から今日に至るアメリカ合衆国の憲法的ディスコースにおいて、憲法上の権利がどのように語られてきたかを、言説分析と呼ばれる手法を用いて考察することを試みた。紙面の関係で詳細な言説分析は別稿(2)に委ね、ここでは具体的な分析に着手するにあたって我々が理解しておくべき前提について論じることにしたい。
2.言説分析とは何か
言説分析とはこういうものだという明確な定義を与えることは難しい。「言説分析」という言葉は今日、様々な思想的背景に基づく多様なアプローチの総称として用いられているのである(3)。もちろん、単に言説を対象とするから言説分析だというわけではなく、共通した志向性を見いだすことが可能である。厳格さの度合いや強調の程度に相違はあるものの、一般に、社会現象が客観的実在としてそこにあって、我々はそれを言説によって媒介されることなく客観的に認識することが可能である、という伝統的な認識論的・存在論的構図を否定し、社会現象は言説によって、そして言説を通して構築される、という理解が言説分析の背景にあるのである。この背景の故に、言説分析は単に言説を分析してみたというのではなく、社会の分析そのものだと考えることができるのである。
それでは、Bowersのようなアメリカの判例の分析は、アメリカ社会の分析だということになるのであろうか。答えはイエスであり、またノーでもある。私がアメリカ社会を興味深い研究対象としてみていることは事実であるが、それは純粋な地域研究としての関心からではなく、アメリカ社会を素材として近代社会の分析を行うことを意図しているのである。人工的に創られ、司法審査制が初めて確立され、個人の自由が極限まで追求され、そして、キリスト教信仰がいわゆる先進国で最も篤い、といった諸条件の故に、アメリカ社会は近代のディレンマと限界が最も先鋭に現れるモデル・ケースになっている。憲法判例を対象とするのも同じ理由からであり、具体的な素材としてBowersに着眼するのも、さしあたりこのケースに近代法の矛盾と揺らぎが典型的に現れていると思われるからなのである。
ここで、判例の言説分析と判例批評の間の相違について言及しておこう。判例批評においては一般に、ある判例が実定法の解釈として正しいか否か、あるいは解釈として優れているか否か、が問題にされる。他方、判例の言説分析においては、そうしたことは問題にならず、むしろ、どういった言説が語られ、どういったレトリックが用いられたのか、そして、どういった論理がそこにあるのか、といった問題に焦点が合わせられる。言説分析は、語り手の主観的な意図を明らかにすることではなく、語り手の意図を越えたレヴェルにおいて作用する言説の効果や相互関係を読みとることに重点を置く。さらに、いかなる言説が語られたかだけではなく、いかなる言説が語られなかったかもまた、言説分析の研究対象になるのである。
3.近代的秩序問題
言説が有意味なものとして存在することを可能にしているのは背景的文脈であるが、憲法的ディスコース全体の背景的文脈を構成しているのはリベラル・リーガリズムである。リベラル・リーガリズムは、近代的世界観が提起する近代的秩序問題に与えられた回答である(4)。近代的世界観は自己を、世界に内属せず、世界を支配の対象とする精神として理解する。事実と論理は客観的であるが価値は主観的とされるため、自己の支配欲求の及ぶ範囲を制限する所与の規範は存在せず、それ故、社会秩序もまた所与として存在しえない。およそ秩序が可能であるためには、無制限の支配欲求が抑制されることが必要であり、支配欲求の抑制を導く何らかの規範が必要だと考えられるからである。所与として存在しない以上、規範は創造されなければならないが、社会秩序が近代的なものであるためには、前近代的な迷信から解放された近代的自己が自発的に受け入れる規範が創造されるのでなければならない。自発的に受け入れるとは欲求するということである。しかし、価値が主観的である以上、人々が同じ規範を欲求する保証はない。リベラル・リーガリズムはこの近代的秩序問題のアポリアを、もう一つの前提である事実と論理の客観性を利用して解決する。世界の支配を欲求するという人間本性についての事実と、その最大限の両立を可能にする境界線の論理的な計算から、合理的な近代的自己が同意する客観的な規範が創出されるのである。これがしばしば理性法と呼ばれる近代的自然法であり、規範的真空状態(「一次的自然状態」)は自然法の存在する「二次的自然状態」へと移行するのである(5)。
これで終わりであれば憲法的ディスコースをめぐる諸問題は生じないのであるが、二次的自然状態には、社会秩序が安定的に存在することを不可能にする二つの欠陥があると考えられる。一つは、実効的な制裁が存在しないために自然法が従われない可能性(フリーライダーの問題)であり、もう一つは、自然法の内容に関する人々の判断が分かれる可能性(認識の問題)である。フリーライダーの問題を解決するために強力な国家権力が創設され、認識の問題を解決するために実定法が定立される。結局、二次的自然状態は実定法を執行する国家権力の存在する政治社会へと移行することになるのである。
4.正当性と実定性のディレンマ
リベラル・リーガリズムはこのように国家権力と実定法の存在意義を説明するが、ここには大きなディレンマがある。国家権力は二次的自然状態においては不確定である自然法の経験的実現を保障するために創設されたものであるにもかかわらず、実際にそれが保障するのは自然法ではなく実定法の実現であるというのがそのディレンマである。
実定法の内容が自然法の内容と合致していなければ、国家権力による実定法の執行は正当化されない暴力の行使に他ならない、しかし、実定法はそもそも認識の問題を解決するために要求されたわけであるから、誰かが自然法を特権的に知ることは不可能であり、実定法の内容が自然法の内容と合致しているか否かを問題にすることはナンセンスだということになるのである。
この正当性と実定性のディレンマを解決するために、あるいはむしろ隠蔽するために、実定法システムの内部にヒエラルヒーを設け、通常の実定法規範と憲法典に表現される高次の実定法規範とを区別することによって、リベラル・リーガリズムは完成する。高次の実定法規範は、真の自然法と対比すれば実定法に他ならないが、通常の実定法規範に対しては、その内容的正当性の判断基準として機能するという点において、超実定法的な、いわば自然法的な性格を帯びる。実定法の内容の自然法適合性、すなわち正当性に対する要求は、通常の実定法の内容の合憲性に対する要求へと変換されることによって代償され、実定法の内容が自然法の内容に適っているか否かを問題にすることはできないという観念は、憲法の自然法適合性が問題にならないこと、あるいはむしろ自明視されることによって維持されるのである。
このディレンマは法のあらゆるレヴェルに伏在している。実定法として定立されているだけで内容的に正当でない法の執行は、近代法にとって不可欠な合理性を欠いているが、逆に、実定法として定立されていないが内容的に正しいとして法が執行されるならば、やはり近代法にとって不可欠な非人格性を欠くことになるのである。一般の実定法は、内容的に正当であると想定される憲法に合致するように解釈するという営みを通じて、かろうじてこのディレンマの顕在化を免れているが、高次法の存在しない憲法においては、このディレンマの顕在化を防ぐことができない。しかし、この事実を認めることはリベラル・リーガリズムのプロジェクトの失敗を認めることに他ならず、かくして、ディレンマの存在を、あるいはその解決不可能性を否認しようとして様々な言説が登場し、憲法的ディスコースの歴史が作られていくのである。
5.合理主義と民主主義のディレンマ
リベラル・リーガリズムは関連するもう一つのディレンマを抱えている。それは合理主義と民主主義の間のディレンマである。認識の問題が存在するが故に実定法が要請されるということは、実定法は全員一致によって定立されるのではないということを意味する。実際、近代社会において実定法は多数決によって定立されるのである。しかし、いったん確立した民主主義の原理は徐々に認識の問題との関連性を失い、法が理性ではなくマジョリティの意思によって定立されることが正常な事態であるという観念を生み出す。初発において法は、あらゆる自己に支配領域が平等かつ最大限に割り当てられるよう世界を分割し尽くす境界線として欲求されたわけであるが、結局、憲法によって保護されたごく一部の領域をのぞいて世界はマジョリティの意思によって支配される領域になってしまうのである。法的規制は誰もが欲するものでなければならないという普遍主義の原理は、誰も法的規制を欲しない領域においては法的規制が存在してはならないという空疎な原理に転化する。そして、法が合理性ではなくマジョリティの意思に基づく以上、州によって法の内容が異なるといった事態は不思議なことではなくなるのである。こうした状況において、リベラル・リーガリズムの、そしてそれがそもそも解決しようとした近代的秩序問題の信憑性は大きく動揺し、リベラル・リーガリズムのパラダイムから離脱しようとする試みと、逆にこのパラダイムの本来の姿に近づこうとする試みが現れる。こうした試みは、抽象的なレヴェルにおいて、リバタリアニズムやコミュニタリアニズムといった政治哲学や倫理学の言説を生み出すが、同時に、具体的な憲法問題をめぐる様々な場面で、それらの言説に関説しつつ、多様な憲法的言説を生み出していくのである。
6.おわりに
憲法上の権利の言説分析が、憲法をめぐる語りのごく表層を形式的になぞるようなものに留まるならば、「それでどうしたのか」という反応が返ってくるだけであろう。我々が目指しているのが、様々な矛盾をはらむ我々の社会を深く掘り下げた分析であるとすれば、そして、背景的文脈の同一性が言説による不断の再生産に依存していることを想起するならば、我々は言説の分析を背景的文脈の分析から切り離すことなく進めていかなければならないのである。